* おねがい*
『山岡の地理B教室』、『はじめからわかる地理B 』、『センター試験のツボ地理B』をお使いの方は こちら をご覧下さい。
なお各記事下の広告(ads by google)は私とは無関係です。
9月13日(火)
4時44分起床、たまたま時計を見たらゾロ目であった。
ダルエスからキンゴルウィラ村への移動日。

老人保養施設あけぼの

菊池マリーンスイミング随時会員募集中
タンザニアの道に、こんなのがたくさん走っている。

赤い土(=熱帯土壌ラトソル)と、サイザル麻(旧宗主国のドイツ資本らしい)
とにかく土が赤い。
熱帯の土壌は、強い日差しと降雨に晒されて、はげしい風化をうける。
その結果、腐植(落ち葉などの植物の遺骸が、バクテリアなどによって分解された有機物)は流れ出して
肥沃度の低い土壌となる。それがラトソル。
ラトソルの語源はレンガ。レンガのように赤いということ。
有機物が溶脱したあとに鉄・アルミニウムなどの酸化物が残って赤くなる、つまり赤錆の色である。
子どもの頃、風景画を描く時は地面を茶色で塗ったひとは、
温帯地方の「褐色森林土」の上で暮らしたのである。
土の色は環境によりさまざま。
大学入試レベルでは、ラトソルの他に
ポドゾル = 灰白色 = 冷帯気候(強酸性の浸透水で成分が溶脱される)
チェルノーゼム = 黒色 = 半乾燥の草原地帯(腐植が多い)
レグール = 黒色 = デカン高原(玄武岩が風化、綿花土)
テラロッサ = 赤色 = 地中海沿岸(石灰岩が風化、オリーブ土)
テラローシャ = 赤紫色 = ブラジル高原(玄武岩が風化、コーヒー土)
などがよく出題される。
一方、サイザル麻(シサル麻)。
固い繊維をとって、ロープなどの原料にする。圧縮してダートの的にもする。
メキシコ原産で、ユカタン半島の北西にあるSisal港から出荷されたのが語源。
メキシコの旧宗主国スペイン語風に読めばシサル、
英語風によめばサイザル。
サイザル麻の主要生産国(2009年)は、
1)ブラジル 280.0(千t) 73.4%
2)タンザニア 23.8 6.2
3)中国 16.5 4.3
4)ケニア 16.2 4.2
5)マダガスカル 13.1 3.4
圧倒的にブラジル(原産国メキシコは6位)。
我がタンザニアは第2位!おー、パチパチ!
しかし、中国って何でも作ってるな。どんな生産統計でも上位に出てくる。
以上、地理ブログとしての情報おわり。
ダルエスから4時間、キンゴルウィラ村に到着

お世話になるホームステイ先の主人グビさんと利光さん
午後は
村の子供たちと遊ぶ。汗まみれ・泥だらけ。


村の子どもと
自分は、走り回ってすでにヘロヘロだが、なんだか幸せそうな顔してるな、このおっさん。
アッキーラ楠原先生と村内を散策。
村のあちこちに赤いレンガがごろごろしている。
赤土で作るから、ホントに赤い。

これは、ダルエスの街中のビルを見ていても思ったのだが
壊しているのか、今から作るのか、よく分からない現場が多い。
これは壊したところだろう。でもよく分からないレンガの山も多い。
スクラップ&ビルド。
少年が白いトウモロコシを脱穀している

主食である。トウモロコシ粉(センベ)を蒸したのがウガリ。
そのままではモサモサするけど、御菜に付けながら一緒に喰うと旨い旨い。
で、帰国後にウガリにチャレンジした顛末は前に記事にした。
➡こちらhttp://geoyamaoka.blog86.fc2.com/blog-entry-206.html
ウガリ初心者が陥りがちな危険に関する重要な情報を含んだ貴重な経験談なので、是非読んで欲しい。
村には脱穀機(製粉機?)の置かれた施設もあった。

みんな袋を片手にのんびり順番をまっている
モスク?らしき建物を発見。

ここからもアザーンが流れる。
タンザニアはイスラム教徒が35%、伝統宗教が35%、
それからキリスト教が20%(ダルエスでは立派なキリスト教会もみかけた)。
この村の中の割合までは分からない。
各家庭のキッチンは、基本的に屋外にある。排煙設備は不要。
高校地理では「薪炭材の過剰伐採は砂漠化の一要因」と教えられる。
人口が急増して、地域環境の人口支持力を上回れば、そうなる。
料理は固定的に女性の仕事。
それは伝統的な文化であるとともに、女性の社会進出を妨げる因襲でもある。
それはともかく、美味しそうな晩飯の御菜が作られつつある。

何処に行っても、アッキーラは溶け込むのが早い。
火星に行ったら。火星人と将棋を指すだろう。
(この日の日記はさらに続く)
4時44分起床、たまたま時計を見たらゾロ目であった。
ダルエスからキンゴルウィラ村への移動日。

老人保養施設あけぼの

菊池マリーンスイミング随時会員募集中
タンザニアの道に、こんなのがたくさん走っている。

赤い土(=熱帯土壌ラトソル)と、サイザル麻(旧宗主国のドイツ資本らしい)
とにかく土が赤い。
熱帯の土壌は、強い日差しと降雨に晒されて、はげしい風化をうける。
その結果、腐植(落ち葉などの植物の遺骸が、バクテリアなどによって分解された有機物)は流れ出して
肥沃度の低い土壌となる。それがラトソル。
ラトソルの語源はレンガ。レンガのように赤いということ。
有機物が溶脱したあとに鉄・アルミニウムなどの酸化物が残って赤くなる、つまり赤錆の色である。
子どもの頃、風景画を描く時は地面を茶色で塗ったひとは、
温帯地方の「褐色森林土」の上で暮らしたのである。
土の色は環境によりさまざま。
大学入試レベルでは、ラトソルの他に
ポドゾル = 灰白色 = 冷帯気候(強酸性の浸透水で成分が溶脱される)
チェルノーゼム = 黒色 = 半乾燥の草原地帯(腐植が多い)
レグール = 黒色 = デカン高原(玄武岩が風化、綿花土)
テラロッサ = 赤色 = 地中海沿岸(石灰岩が風化、オリーブ土)
テラローシャ = 赤紫色 = ブラジル高原(玄武岩が風化、コーヒー土)
などがよく出題される。
一方、サイザル麻(シサル麻)。
固い繊維をとって、ロープなどの原料にする。圧縮してダートの的にもする。
メキシコ原産で、ユカタン半島の北西にあるSisal港から出荷されたのが語源。
メキシコの旧宗主国スペイン語風に読めばシサル、
英語風によめばサイザル。
サイザル麻の主要生産国(2009年)は、
1)ブラジル 280.0(千t) 73.4%
2)タンザニア 23.8 6.2
3)中国 16.5 4.3
4)ケニア 16.2 4.2
5)マダガスカル 13.1 3.4
圧倒的にブラジル(原産国メキシコは6位)。
我がタンザニアは第2位!おー、パチパチ!
しかし、中国って何でも作ってるな。どんな生産統計でも上位に出てくる。
以上、地理ブログとしての情報おわり。
ダルエスから4時間、キンゴルウィラ村に到着

お世話になるホームステイ先の主人グビさんと利光さん
午後は
村の子供たちと遊ぶ。汗まみれ・泥だらけ。


村の子どもと
自分は、走り回ってすでにヘロヘロだが、なんだか幸せそうな顔してるな、このおっさん。
アッキーラ楠原先生と村内を散策。
村のあちこちに赤いレンガがごろごろしている。
赤土で作るから、ホントに赤い。

これは、ダルエスの街中のビルを見ていても思ったのだが
壊しているのか、今から作るのか、よく分からない現場が多い。
これは壊したところだろう。でもよく分からないレンガの山も多い。
スクラップ&ビルド。
少年が白いトウモロコシを脱穀している

主食である。トウモロコシ粉(センベ)を蒸したのがウガリ。
そのままではモサモサするけど、御菜に付けながら一緒に喰うと旨い旨い。
で、帰国後にウガリにチャレンジした顛末は前に記事にした。
➡こちらhttp://geoyamaoka.blog86.fc2.com/blog-entry-206.html
ウガリ初心者が陥りがちな危険に関する重要な情報を含んだ貴重な経験談なので、是非読んで欲しい。
村には脱穀機(製粉機?)の置かれた施設もあった。

みんな袋を片手にのんびり順番をまっている
モスク?らしき建物を発見。

ここからもアザーンが流れる。
タンザニアはイスラム教徒が35%、伝統宗教が35%、
それからキリスト教が20%(ダルエスでは立派なキリスト教会もみかけた)。
この村の中の割合までは分からない。
各家庭のキッチンは、基本的に屋外にある。排煙設備は不要。
高校地理では「薪炭材の過剰伐採は砂漠化の一要因」と教えられる。
人口が急増して、地域環境の人口支持力を上回れば、そうなる。
料理は固定的に女性の仕事。
それは伝統的な文化であるとともに、女性の社会進出を妨げる因襲でもある。
それはともかく、美味しそうな晩飯の御菜が作られつつある。

何処に行っても、アッキーラは溶け込むのが早い。
火星に行ったら。火星人と将棋を指すだろう。
(この日の日記はさらに続く)
1ヶ月近く更新していないので、生きていることをご報告しておきます。
某〇〇の執筆、遅れています ➡ Oさん、ゴメンナサイ!Nさん、頑張ります!
某〇〇の作成、遅れています ➡ Gさん、ゴメンナサイ!2次〆切は間に合わせます。
こどもを守る会 いるま ➡ 会員のみなさんの活躍で、徐々に動きは広がっています!
私が書くべき原稿やブログ更新、遅れがちです。皆さん、ゴメンナサイ!
チラシ配布、署名活動、学習会・・・頑張りましょう!
先日、柴田教授にお会いしました ➡ 「ゆいさんの投書問題」について当事者と語りました。
柴田さん、ひるまず頑張れ!
ゆいさん、もっと発言して「ひるみそうな」柴田さんを励まして!
とうちゃんのGWは仕事漬けです ➡ 豚児・拙女、一緒に遊べなくてゴメン!

タンザニアの日々は遥か遠く・・・
あ、旅行記の続き書かなきゃ! ➡ しょうこちゃん、ゴメンナサイ!
某〇〇の執筆、遅れています ➡ Oさん、ゴメンナサイ!Nさん、頑張ります!
某〇〇の作成、遅れています ➡ Gさん、ゴメンナサイ!2次〆切は間に合わせます。
こどもを守る会 いるま ➡ 会員のみなさんの活躍で、徐々に動きは広がっています!
私が書くべき原稿やブログ更新、遅れがちです。皆さん、ゴメンナサイ!
チラシ配布、署名活動、学習会・・・頑張りましょう!
先日、柴田教授にお会いしました ➡ 「ゆいさんの投書問題」について当事者と語りました。
柴田さん、ひるまず頑張れ!
ゆいさん、もっと発言して「ひるみそうな」柴田さんを励まして!
とうちゃんのGWは仕事漬けです ➡ 豚児・拙女、一緒に遊べなくてゴメン!

タンザニアの日々は遥か遠く・・・
あ、旅行記の続き書かなきゃ! ➡ しょうこちゃん、ゴメンナサイ!
瓦礫問題について、
「こどもを守る会 いるま」のブログhttp://kodomoiruma.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
でも問題点をまとめました。是非ご覧下さい。
ついでながら「こどもを守る会 いるま」の次のミーティングは
4月15日(日)午前10時〜12時ころ、入間市健康福祉センター(託児室)です。
コメント欄に頂いたご質問にも答えなければいけないのですが、
春期講習会で朝10時〜夜10時で授業をしていて、精一杯です。
(最近の記事は、主に以前から少しずつ書き溜めたものをアップしています)
いましばらくお待ちを・・・
逃げも隠れもいたしませんので。
「こどもを守る会 いるま」のブログhttp://kodomoiruma.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
でも問題点をまとめました。是非ご覧下さい。
ついでながら「こどもを守る会 いるま」の次のミーティングは
4月15日(日)午前10時〜12時ころ、入間市健康福祉センター(託児室)です。
コメント欄に頂いたご質問にも答えなければいけないのですが、
春期講習会で朝10時〜夜10時で授業をしていて、精一杯です。
(最近の記事は、主に以前から少しずつ書き溜めたものをアップしています)
いましばらくお待ちを・・・
逃げも隠れもいたしませんので。
(承前)話は変わりますが、障害者を介護(介助)するときは、原則的に「手足(道具)になる」ことに徹する必要があると考えています。これは私のオリジナルではなく、以前から「青い芝の会(脳性マヒ者の当事者団体)」の中にある考え方です。
例えば、障害者から「昼飯に即席焼きそばを作ってくれ」と言われたとします。手足であることを忘れた介護者は、「袋に書いてあるとおりの作り方でいいよ」と言われているのに、「ウスターソースで味付けた方が美味しいですよ」なんて言って勝手にやってしまうわけです。
これは、もちろん、昔の私の話です。友達の関係だったらまだしもですが、それを、善意だから、などというのはとんでもない間違いであって、たかが即席焼きそばでさえ自分の思うような味で喰えないことの怒りや悲しみを想像できない介護者の愚かさを現しているわけです。まあ、この程度のことなら、障害者の方が「仕方ない」と諦めるケースも多いのでしょう。拒否すれば昼飯自体に側ありつけない可能性だってあるのですから、彼らの「立場」は絶対的に弱いのです。
もちろん、犯罪行為や被介助者の身体生命に危険が及ぶ場合などの例外はありましょうが、そんな極端な話をもちだすのには、話をうやむやにしようとする狡い意図を感じます。特に重い障害を持っていれば、生活のすべてにおいて介護者なしに生活(生命維持)出来ないのですから、彼らが自由に生きるためには、やはり、「介助者=手足(道具)」は結構重要な原則だと思います。
いや、現実の場面ではいろいろ難しいところもあって、たとえば文章を口述筆記する時なんかは、口述通りに書く(打つ)と、どうしても文章がねじれることがあります。話している言葉なんて誰だってそんなもんです。で、こちらの判断で適当に“てにをは”を修正しながら書いてしまいます。もちろん事後的に本人に確認はしてもらいますが、「障害者には思いのままに多少文法的に間違った文を書く自由もない」とも言えるわけで、この辺は突き詰めると悩みどころです。これはほんの一例であって、「考える手足」は介護のさまざまな場面で迷うのです。
さて、柴田先生がゆいさんの投書を代行された経緯の一端が、先生のブログ(「関わり合いの場から」http://blog.zaq.ne.jp/yshibata1958/ 2012年3月12日)に書かれています。以下、引用します。
前回紹介したゆいさんの文章には深い感銘を得ましたが、ブログに記された柴田先生とゆいさんのやりとりを読んだときには、正直言って、私は強い違和感を覚えました。
ゆいさんから「パソコンで綴った文章を新聞に投稿してほしいというふうに頼まれた」柴田先生は、「私たちにそういう純粋な思いを遮る権利はまったくないと思った」。にもかかわらず、「本人が特定されると、いろいろむずかしいことが起こる」と心配して、「匿名でいいかと尋ねた」のです。勝手に投稿したり、しなかったり、ではなく、先生はちゃんと相手の意志を確認されています。
しかし(ここからは憶測を交えますが)、自分の言葉を引き出してくれた、ふだんからお世話になっている大学の先生が示した懸念を、ゆいさんは無視しづらいと思います。実際、「匿名でいいか」と聞かれて、「なまえさえないのはつらいです」と答えています。本当は、本名で投稿したかったのではないでしょうか?自分が、自分として、自分の言葉を世界に届けたい。健常者ならば、思い立てばだれでもあたりまえに出来ることです。けれども、先生がそうおっしゃるなら、実名と匿名の間を取って無難な「ゆいさん」の表記で妥協しようかな・・・。
先生自身が書いているように、われわれ介護者=道具には、被介護者の思いを遮る権利はありません。もちろん、全ては私の憶測です。本名での投稿を柴田先生が躊躇した背景には、障害者を取り巻くさまざまな問題が横たわっているとは思います。私も直接存じ上げている思慮深い先生のことですから、その懸念は現実的には無視できないものなのでしょう。これまた憶測ですが、仮にゆいさんが「世間体を気にする(障害者の存在を隠したい)家族」や「素直で従順な障害者をよしとする福祉職員」に生活と生命維持を依存しているとすれば、思いのままに発言することはリスクを伴うのかもしれません。障害者の療養施設で繰り返される職員による暴行事件はごく一部のことだと信じたいですが、「氷山の一角」である可能性も十分あります。極端な犯罪的ケースだけでなく、健常者社会が障害者に押し付ける「純粋で無垢」なイメージから逸脱した行動に対する、身近な人からのソフトな圧力はもっと怖いかもしれません。「そんな過激なことを言うなんて、ゆいさんらしくないよ」…暴行なら、少なくとも精神的には抵抗できますが、日常的な軋轢や笑顔のプレッシャーには抵抗するのも難しい。健常者の間でも同調圧力の高い日本社会ですから、障害者にはそれ以上の重石が乗っかっていることでしょう。長年、障害者教育の世界に携わる柴田先生なら、そんなことは重々ご承知であって、だからこそ実名で投稿した場合にゆいさんに降り掛かる困難を慮ったアドバイスをされたのでしょう。
しかし、と思うのです。投稿文から読み取れるゆいさんの明晰さや意志の強さから考えると、彼女はそんな周囲との「いろいろむずかしいこと」も全て引き受けるつもりで発言しようとしたのではないか。彼女はおそらく、長い間自分の言葉を他者に伝える手段を持たず、しかし心の中では豊穣な言葉の世界を築いてきた。柴田先生との出会いで、言葉を表出させるチャンスを得て、いまこそ言葉を羽ばたかせようとしている。おおいなる勇気を奮って、健常者の世界にじぶんの言葉をはじめて投げかけようとした。
場合によっては、この投稿は健常者文明に対する訴えであるだけでなく、周囲との関係を再構築する突破口になるかもしれない。ひいては重度重複障害者の世界を変革する第一歩に・・・おそろしいほど長い時間をかけて、絞り出すように、ひとことひとことを表現する人だからこそ、それだけ言葉の重要性を知る人だからこそ、その言葉には重層的な意味合いを持たせていると考えて間違いはないと思います。前回の記事で私が「読み下した」レベルの解釈では、底が浅すぎるように感じるのです。自戒を込めていえば、言葉はプラスにもマイナスにも強い力を持ちます。その強い力を最大限に引き出して、障害者と健常者の関係性を揺り動かそうとするゆいさんの営為を読み取らなければならないと思うのです。聞き手(読者)にとっては匿名でも十分に衝撃を受ける投書ですが、発言というか投稿した側にとっては匿名と実名ではまるで意味が違ってくるはずです。だからこそ先生の配慮もなされたわけですが・・・
ゆいさんの「なまえさえないのはつらい」という言葉が、私の頭の中でリピートされています。彼女には、自分の言葉を自分のものとして表明する権利があります。もちろん、そのことによって得るものも失うものもあるでしょう。傷つくことも、傷つけることもあるでしょう。しかし、そのリスクも含めての表現の自由であるはずです。ゆいさんの場合、下手をすると周囲との軋轢がそれこそ生命維持に影響を与えかねないわけでしょうから、介護者として手足・道具に徹するべきかどうか、気楽な私の立場で云々できるような問題ではありません。でも、ゆいさんをトラブルから守ることが、ゆいさんの人間としての権利や自由を守ることに無条件で優越するとは思えないのです。
年に1〜2回、アリバイ的に旧知の利光さんの介護をする程度の私が、長い間障害児・者に寄り添ってともに生きてこられた先生に、どうのこうの言うのはおこがましい限りですが、この違和感だけは(ある種のリスクを負ってでも)表明しておきたいのです。
例えば、障害者から「昼飯に即席焼きそばを作ってくれ」と言われたとします。手足であることを忘れた介護者は、「袋に書いてあるとおりの作り方でいいよ」と言われているのに、「ウスターソースで味付けた方が美味しいですよ」なんて言って勝手にやってしまうわけです。
これは、もちろん、昔の私の話です。友達の関係だったらまだしもですが、それを、善意だから、などというのはとんでもない間違いであって、たかが即席焼きそばでさえ自分の思うような味で喰えないことの怒りや悲しみを想像できない介護者の愚かさを現しているわけです。まあ、この程度のことなら、障害者の方が「仕方ない」と諦めるケースも多いのでしょう。拒否すれば昼飯自体に側ありつけない可能性だってあるのですから、彼らの「立場」は絶対的に弱いのです。
もちろん、犯罪行為や被介助者の身体生命に危険が及ぶ場合などの例外はありましょうが、そんな極端な話をもちだすのには、話をうやむやにしようとする狡い意図を感じます。特に重い障害を持っていれば、生活のすべてにおいて介護者なしに生活(生命維持)出来ないのですから、彼らが自由に生きるためには、やはり、「介助者=手足(道具)」は結構重要な原則だと思います。
いや、現実の場面ではいろいろ難しいところもあって、たとえば文章を口述筆記する時なんかは、口述通りに書く(打つ)と、どうしても文章がねじれることがあります。話している言葉なんて誰だってそんなもんです。で、こちらの判断で適当に“てにをは”を修正しながら書いてしまいます。もちろん事後的に本人に確認はしてもらいますが、「障害者には思いのままに多少文法的に間違った文を書く自由もない」とも言えるわけで、この辺は突き詰めると悩みどころです。これはほんの一例であって、「考える手足」は介護のさまざまな場面で迷うのです。
さて、柴田先生がゆいさんの投書を代行された経緯の一端が、先生のブログ(「関わり合いの場から」http://blog.zaq.ne.jp/yshibata1958/ 2012年3月12日)に書かれています。以下、引用します。
ある関わり合いの場で、パソコンで綴った文章を新聞に投稿してほしいというふうに頼まれた。意を決したような強い内容に、私は一瞬ひるみそうになったが、私たちにそういう純粋な思いを遮る権利はまったくないと思った。しかし、本人が特定されると、いろいろむずかしいことが起こることが予想されたので、匿名でいいかと尋ねたところ、「なまえさえないのはつらいです。ゆいさんと書いてください」と返事が返ってきた。そこで名前だけを出すということで投稿したところ、3月5日の毎日新聞の「みんなの広場」に掲載された。
前回紹介したゆいさんの文章には深い感銘を得ましたが、ブログに記された柴田先生とゆいさんのやりとりを読んだときには、正直言って、私は強い違和感を覚えました。
ゆいさんから「パソコンで綴った文章を新聞に投稿してほしいというふうに頼まれた」柴田先生は、「私たちにそういう純粋な思いを遮る権利はまったくないと思った」。にもかかわらず、「本人が特定されると、いろいろむずかしいことが起こる」と心配して、「匿名でいいかと尋ねた」のです。勝手に投稿したり、しなかったり、ではなく、先生はちゃんと相手の意志を確認されています。
しかし(ここからは憶測を交えますが)、自分の言葉を引き出してくれた、ふだんからお世話になっている大学の先生が示した懸念を、ゆいさんは無視しづらいと思います。実際、「匿名でいいか」と聞かれて、「なまえさえないのはつらいです」と答えています。本当は、本名で投稿したかったのではないでしょうか?自分が、自分として、自分の言葉を世界に届けたい。健常者ならば、思い立てばだれでもあたりまえに出来ることです。けれども、先生がそうおっしゃるなら、実名と匿名の間を取って無難な「ゆいさん」の表記で妥協しようかな・・・。
先生自身が書いているように、われわれ介護者=道具には、被介護者の思いを遮る権利はありません。もちろん、全ては私の憶測です。本名での投稿を柴田先生が躊躇した背景には、障害者を取り巻くさまざまな問題が横たわっているとは思います。私も直接存じ上げている思慮深い先生のことですから、その懸念は現実的には無視できないものなのでしょう。これまた憶測ですが、仮にゆいさんが「世間体を気にする(障害者の存在を隠したい)家族」や「素直で従順な障害者をよしとする福祉職員」に生活と生命維持を依存しているとすれば、思いのままに発言することはリスクを伴うのかもしれません。障害者の療養施設で繰り返される職員による暴行事件はごく一部のことだと信じたいですが、「氷山の一角」である可能性も十分あります。極端な犯罪的ケースだけでなく、健常者社会が障害者に押し付ける「純粋で無垢」なイメージから逸脱した行動に対する、身近な人からのソフトな圧力はもっと怖いかもしれません。「そんな過激なことを言うなんて、ゆいさんらしくないよ」…暴行なら、少なくとも精神的には抵抗できますが、日常的な軋轢や笑顔のプレッシャーには抵抗するのも難しい。健常者の間でも同調圧力の高い日本社会ですから、障害者にはそれ以上の重石が乗っかっていることでしょう。長年、障害者教育の世界に携わる柴田先生なら、そんなことは重々ご承知であって、だからこそ実名で投稿した場合にゆいさんに降り掛かる困難を慮ったアドバイスをされたのでしょう。
しかし、と思うのです。投稿文から読み取れるゆいさんの明晰さや意志の強さから考えると、彼女はそんな周囲との「いろいろむずかしいこと」も全て引き受けるつもりで発言しようとしたのではないか。彼女はおそらく、長い間自分の言葉を他者に伝える手段を持たず、しかし心の中では豊穣な言葉の世界を築いてきた。柴田先生との出会いで、言葉を表出させるチャンスを得て、いまこそ言葉を羽ばたかせようとしている。おおいなる勇気を奮って、健常者の世界にじぶんの言葉をはじめて投げかけようとした。
場合によっては、この投稿は健常者文明に対する訴えであるだけでなく、周囲との関係を再構築する突破口になるかもしれない。ひいては重度重複障害者の世界を変革する第一歩に・・・おそろしいほど長い時間をかけて、絞り出すように、ひとことひとことを表現する人だからこそ、それだけ言葉の重要性を知る人だからこそ、その言葉には重層的な意味合いを持たせていると考えて間違いはないと思います。前回の記事で私が「読み下した」レベルの解釈では、底が浅すぎるように感じるのです。自戒を込めていえば、言葉はプラスにもマイナスにも強い力を持ちます。その強い力を最大限に引き出して、障害者と健常者の関係性を揺り動かそうとするゆいさんの営為を読み取らなければならないと思うのです。聞き手(読者)にとっては匿名でも十分に衝撃を受ける投書ですが、発言というか投稿した側にとっては匿名と実名ではまるで意味が違ってくるはずです。だからこそ先生の配慮もなされたわけですが・・・
ゆいさんの「なまえさえないのはつらい」という言葉が、私の頭の中でリピートされています。彼女には、自分の言葉を自分のものとして表明する権利があります。もちろん、そのことによって得るものも失うものもあるでしょう。傷つくことも、傷つけることもあるでしょう。しかし、そのリスクも含めての表現の自由であるはずです。ゆいさんの場合、下手をすると周囲との軋轢がそれこそ生命維持に影響を与えかねないわけでしょうから、介護者として手足・道具に徹するべきかどうか、気楽な私の立場で云々できるような問題ではありません。でも、ゆいさんをトラブルから守ることが、ゆいさんの人間としての権利や自由を守ることに無条件で優越するとは思えないのです。
年に1〜2回、アリバイ的に旧知の利光さんの介護をする程度の私が、長い間障害児・者に寄り添ってともに生きてこられた先生に、どうのこうの言うのはおこがましい限りですが、この違和感だけは(ある種のリスクを負ってでも)表明しておきたいのです。








